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出国までタイHCMCヴェトナム戦争日本語クラブ子どもたちゴミ山跡地メコンデルタ





 ベトナムについての数々の噂―治安が悪いよ。食べ物は不衛生だよ。―友達にベトナムに行くといえば、初海外でベトナム?危険じゃない?と言われた。出国が近づくに連れ、不安は募る。不安が楽しみな気持ちを上回る。持っていく荷物の準備をしだすと、さらに本当にベトナムに行くのかと現実感が増した。緊張が最高潮に達したのは大阪の自宅を出る1時間前から関空行きの電車に乗り込むまでだった。親が心配して、さんざん脅された。その心配が私にも移った。忘れ物はない?飛行機落ちたらどうしよう。旅の2週間ってどれくらい?不安過ぎて開き直って、家族ともう一生会えない覚悟を少しした。今考えると大げさだが、その時の私は本当にそう思った。  海に出た電車から見える、きらきらひかる夜の大阪に別れを告げて、関空に着いた。関空の雰囲気が心地よい緊張感とわくわくした好奇心で私を覆った。初めて乗り込む国際線。アジア系の人が語り合っている。午後十時。集合時刻の1時間前。一番乗りだ。ソファーに腰掛けて、薄暗く人気のない夜の空港を眺めていると落ち着いてきた。しばらくして1班のメンバーらしき人が来て安心して、日本で遣り残した小仕事を片付け始めた。すると班長とその友達がやってきて、私に気づいた。みんな気さくで話しやすい、いい雰囲気。これからのベトナムを思い、どんなベトナムであろうと、不安を共有できる人たちがいることを心強く思った。一人で国際線の搭乗の手続きはできないと思った。  飛行機がスピードを上げ始めた。ジェットコースターとは違うスリル。日本さよなら。午前一時半。こんなやや興奮状態で、落ち着かない体勢で寝るのかと思うと起きていたかった。機内は日本から出発したのに、スチュワーデスがタイ人で、もう出国したんだなと実感。運悪くシートが傾かない席だ。寝苦しくて、意識と無意識の狭間を行き来していた。気づけば機内は暗く、気づけば電気がついて朝食を配り始めていた。時計を2時間早めた。  夜明け前のタイ。飛行機を降りた瞬間、初めて異国の空気を吸う。じめっとした空気を一瞬感じたが、あとは空港のクーラーの空気だった。においつきの空気。掲示板のタイ語と英語。ここは日本じゃない。


 時計は午前5時半。体が重い。次の飛行機は午前11時。座る場所を手分けして探すが、多くの客が椅子をベッド代わりに寝ている。みんなで座れる場所がない。別々にうろうろして座る場所を見つけた。関空行きの電車の中でいた人を見つけた。初めは日本人だらけだったが、まばらになり、いろんな肌の色いろんな身なりをした人が行きかい始めた。はじめはその光景をぼんやり眺めていたが、疲れて荷物を抱きしめて眠った。  聞いたこともない言葉に起こされた。私の隣のイスで鮮やかな色のサリーを身にまとった女性とターバンを巻いた男性が会話をしていた。男性のこげ茶黒いまつげのついたはっきりした大きな瞳が私を見て、どきりとした。すると、みんながそろって歩いてきて、いい場所を見つけたと言った。横で寝ているみっちゃんとまりえちゃんを起こして、上の階に移動した。  シャッターの閉まった店が並ぶのを横目に長い広い通路を歩き、大きなソファーがたくさんならぶ場所に着いた。ソファーは大きなガラスに向かって並べられていた。大きなガラスの向こうは滑走路で、どこかへ飛ぶ準備をしている数台の飛行機を眺められる。薄明かり、夜明けの飛行場。曇った空。明るくなっていく飛行場。しばらくしゃべっていたが、眠たくなってソファーを動かして2台くっつけて寝っころがって寝た。荷物ほうったらかし。1時間ごとに目が覚めた。隣の濱は読書している。もうすっかり明るくなって、一緒に外を眺めている人、通路を行き交う人の気配が出てきた。目を覚ますたび私たちの他にソファーに腰掛ける人も変わり、まばらに増えてきた。タイのスチュワーデスさん。子連れの日本人。  寝転がって無事に飛んでいく飛行機を見るのが楽しい。一台一台滑走路での機内の緊張感が私にまで伝わる。遠くのほうでは離陸したプロペラ機がゆっくりゆっくり空に消えていく。  バンコクの空港の女子トイレは足の細いきれいなタイ人の従業員さんが鏡の前に立っていた。トイレットペーパーはどでかい円で幅が細い、濃いピンク色をして、巻き取るのが重い。初海外トイレ!普通の洋式で意外とトイレは万国共通なんだと思った。これから私を待ち受けるトイレへの不安が薄らいだ。私が10日後出会うメコンデルタのトイレなど想像すらできなかった。  ソファーから離れ、待合室から、飛行機までの移動バスを待つ。なかなかバスが来ない。離陸予定時間10分前位にやっとバスがくる。イライラしながらも、ああこれが噂に聞く時間にルーズなお国柄か。とタイが時間にルーズな国だという噂など聞いたことがなかったが、日本との違いを発見して喜んでいた。誇りっぽい窓全開のバスに詰め込まれる。見る人見る人身なりが違って私はバス全体を覆う初めての雰囲気に圧倒された。私の肘のあたりで、顔以外の全身を一つながりの布でまとっている小さなおばあちゃんが何語かもわからない言葉を発していた。足を踏まないように少しどきどきしながら、このバスの私たちは一体どれくらいの可能性で、同じバスに乗り合わせているのかと考えていた。空港は工事中だ。目を細めて砂埃入りの風を顔いっぱいに受ける。バスを降りると、ビートルズが来日した時降りたような階段が飛行機から下ろされていた。私は今まで5台の飛行機に乗ったが、階段で乗るのは初めてだった。はしゃいで飛行機の中に入るまで一回振り向いてみた。飛行機の小ささに少し不安を感じたが、離陸の時は隣にいた野上さんと話していたからあまり怖くなかった。野上さんの話が面白くて、時間はすぐに経った。お昼ご飯はやはりタイの料理。タイ米とチキンに癖のあるタレをかけたものと、サラダのような酢の物のような得体の知れない野菜がはいったものとケーキだった。野菜のはまずくて食べられなかった。出発前、二週間どんな食べ物でもドンと来いや!と思っていたので早速ショックだった。バンコクからタンソンニャットまではご飯を食べていたら、すぐだ。窓からベトナムの地が見えた。黄土色の屋根に濃い緑の木々。ベトナムやーーーー☆☆☆☆


初めての海外。降り立ったその地はホーチミン。タンソンニャット空港にはツアーの主催者でフォトジャーナリストのMさん、その友達、通訳、またベトナムで合流の1班のメンバーが迎えてくれた。わごん車が町を走り出す。バイクバイクバイク。道路の幅は広く、車線という概念はないようだ。車はバイクを掻き分け掻き分け走る。
私たちが宿泊したゲストハウスの周辺は私たちと同じ外国人観光客でにぎわう通りだ。おいしい店が立ち並び、人は昼夜絶えることなくごった返している。そんな私たちからお菓子やお小遣いをねだりに、カンボジアからきた幼い難民たちがたむろしている。ホテルから出てきた私の腰のあたりを手でつつき、目が合えば上目遣いで手を合わせ何回もお辞儀をする。ごめんね。何も持ってないねん。。私は二週間の滞在で一回も与えなかったが、顔見知りになっても笑顔で毎日挨拶代わりのようにおねだりをしてくれた。
ホーチミンにきて2日目私たちは市内をぐるりと散策した帰り道、道路沿いのチェー屋さんに行った。現地の方々はおいしそうに飲んで(食べて?)くつろいでいる…が、私はそのコップの中身に不安を隠し切れなかった。色のきつい緑や赤の透明の長細い物体に多量の黒い豆と、白い液体…。おいしいのか!?どきどきしながら、おいしそうに食べる通訳のNを信じて口に運んでみると、やや和風な薄甘い感じとでんぷんぽさが口に広がった。おいしいとは言えないが食べれないことはなかった。しばらくかき混ぜて様子を見ているとだんだん風味が濃くなって甘くなってきておいしくなっていった。ベトナムのヘルシーあんみつと言ったところか。風呂の椅子位の高さの椅子に座って、道路のバイクの流れを眺めながらチェーを堪能していたら、隣の店のおばちゃんが何も言わず、私の椅子を押した。敷地からはみ出ていたらしい。






4区
ホーチミンの朝は早い。私は、ホーチミンに来て、毎朝5時過ぎには目がさめた。私が泊まっている宿は道に面していて、しかも私と私の部屋はホテルの中で一番道に近い部屋だった。道行く人の音が部屋まで筒抜けなのだ。
朝5時でも、道行く人はいつも絶えることがない。朝からバイク、野菜売りやらでにぎやか。朝市に行く人らもいるのだろうか。
主催者フォトジャーナリストのMが、貧困地区の4区に連れて行ってやる。とほかのメンバーに声をかけていた。私は声をかけられなかったが、絶対見ときたかったので、行きたいと言って連れて行ってもらうっことにした。翌朝6時半集合だ。
翌朝目がさめると5時半だった。治安が悪く危険だというので、ジャージにTシャツ。日本では、吹奏楽部のマーチング練習でしかしないような格好。それに、いつもは持ち歩いている一眼レフカメラもお留守番。財布をポケットに詰めて手ぶらで集合場所に向かった。
集合場所はカフェ。なんと6時半で普通に営業しているのだ!!アイスミルクコーヒー(カフェ・サ・ダ)を飲んでいざ出発。徒歩で朝の街散策。朝は昼間と活気が違った。少し歩くと、朝市がでてきた。町全体が市場のようだ。道には店が並ぶので道幅は狭く、道行くバイクは後方にてんこ盛りの商品をのせたリアカー付きのバイクリアカー。人が多いのでクラクションが絶えず響き渡る。ベトナム独特の天秤を担ぐ人も。 

戦争証跡博物館
 この写真はヴェトナム戦争で使われた爆弾だ。ツアー4日目私たちは戦争証跡博物館に向かった。そこには多くの写真と、実際の武器や、枯葉剤による影響で生まれた奇形児のホルマリン漬け、実際のギロチン台、各国が反米運動を起こしたポスター、などなどたくさんの悲惨な現実を伝えるものがあった。何より印象的なのは米軍にもベトミンにも従軍した戦争カメラマンの視点だ。日本人の石川文洋氏の写真展もあった。博物館には世界各国から多くの観光客が見学していたが、子供連れのベトナム人もいた。どんな気持ちで当時を振り返るのだろうか。  見終わった私たちは精神的にも体力的にも疲れきって言葉数も少なく、博物館を後にした。


 ベトナムに来るまで、まさか日本語がベトナムでこんなに見受けられるとは思いもよらなかった。ホーチミンの町を歩けば、バイクタクシーのおじさんが「おっはー!」ベンタイン市場では「お姉さん何がほしい?」「Tシャツ安いよー。」と声をかけられる。特に市場では日本人の観光客はすごい数だ。日本語が飛び交う。そういうわけで日本語を学ぶ人は増えているようだ。ホーチミンの青年文化会館では日本語クラブといって、日本語を勉強している人が集まる会がある。そこに参加してきた。  私が話をしたベトナム人は、日本語学校で学んでいる人だった。年齢層も広く将来の夢はガイドさん、日本語教師、コックなど様々。日本語を学び始めて3ヶ月の人もきちんと私の言うことを理解していて、驚かされました。

7区の施設
 このスタディツアーでは、子供たちと遊ぶ機会が多くあった。戦争証跡博物館の後、7区まで車を走らせて、性的虐待を受けた女の子が暮らす施設へ向かった。私はリュックの中に日本から持ってきた強い見方ソプラノリコーダーを忍ばせてきたが、言語も違うし、うまく楽しんでもらえるかどうか不安と期待が入り混じっていた。
 しかし、10分もたたないうちにその不安もどこへやら!ひとなつっこい子らは、私たちが教えようと思って持ってきた折り紙も大の得意。逆に教えてくれました☆
 辛い過去を感じさせない明るさ。チューしてきたり、抱きついたり、一緒に日本語の歌も歌ったし、リコーダーにも興味を持ってくれて大成功。
 でも全員が私たちと遊んでいたわけではなかった。2階からひっそり私たちを見守っていた子達もいたそうだ。人の心の強さと弱さを感じた。
ビンチューの施設


ビンチューの施設に到着。その時間はみんなのお昼寝の時間だったので少し喫茶店で時間を潰した後、建物の中に入った。隣の部屋では、これから目を覚まして私たちと目いっぱい遊ぶ子どもたちが、きれいに並んですやすや眠っていた。静かな平和な時間が流れた。
 部屋の端に置かれた来客用ソファーは、あのマザーテレサが座ったソファー。記念写真も飾ってあった。そのソファーに腰掛けてふざけあったりしているうちに、お昼寝の時間が終わった。
 次々に目を覚まし活動しはじめる子どもたち。女の子二人組が少し恥ずかしそうに「こんにちは。」と声をかけてくれた。私が「話せるのー!?」と驚くと喜んでいた。日本人の訪問客が多いらしく、日本語を覚えたらしい。
 カメラを向けるとかわいいポーズをとってくれた。またこの写真を渡しに行きたい。

カメラを持ってうろうろしていたらみんな撮ってほしそうに近寄ってきてくれた。
 しばらくカメラで遊んでいたがしまいにおんぶに抱っこに、私をお姫様にして、男子が悪者、女子が私を守る、という設定の戦いごっこが始まった。男子対女子で激しい蹴り合いが始まった。ダイヤブロックでできたピストルまで登場して私は逃げたり、腕を両側から引っ張り合われたり。パンチ入りますケリ入りますの大乱闘。
 終わりの見えない乱闘に出る汗を出し切った私に、今度はお馬さんをせがむ。お馬さんバージョンorおんぶバージョンの騎馬戦も加わり、力尽きてしゃがみこんだ私ともう一人巻き込まれた私の友達。そんな私たちに気づいた彼女らはお水を汲んできて差し出してくれた。うれしい!!感動。。。けど飲んだらおんぶオーラを出して待ち構えている。
 彼女たちの間で『ベトナム版おちゃらか』のようなものが始まった。わけわからず手を出して見様見真似でして観察していたら、しばらくしてルールがわかった!言葉がわからなくても表情で勝ち負けがわかった。私と友達Mと4人で楽しんだ。こんなに楽しく手遊びをしたのはいつぶりだったろう。
 彼女らと遊んでいたらベトナム語を自然とたくさん覚えていた。『おんぶ』これは上目遣いで何度ねだられたか。。『雨』途中で雨が降ってきて彼女らが雨に手をかざして叫んでいた。『勝ったー!!』おちゃらかで勝ったときに叫んでいた言葉。あと『鍵』を覚えた。でも言葉なしで仲良くなれたのが一番嬉しい。



ドンナイ省幼稚園の帰路で立ち寄ったカフェは、とってもかわいい。ハンモックと寝そべりベンチが道路沿いに向かって並んでいる。その背景はというと、ゴミ山の跡地。
 M氏によると以前は今見渡せる範囲はゴミの山だった。とか。少し跡地を歩いてみた。ここで働いていた人は今頃どうして生活しているんだろう。ゴミを運ぶためのかごがたくさん放置してある。ひしゃげたかごに草が絡んで花が咲いていた。
 まだゴミを集めに来ている若者に出会った。プラスチックだけを集めてお金に換えると言う。一日1、2万ドン(約100〜200円)稼ぐそうだ。
 ゴミのまだ残っている場所に行くと、おびただしい数の虫が飛び交い、悪臭はすごい。少しゴミの中に足を踏み入れてみた。ふかふかして歩きにくい。動きにくい。ゴミ山の頃は何十倍も悪臭が強かっただろうのに、この場所で一日中働くのはどんな感じだろう。


 メコンデルタへ!!メコン川。中学のとき地理で覚えた川。まさかその地を訪れるなんて思いもよらなかった。先輩からジュラシックパークのロケ地みたいだよ。と聞いていたので、実は一番楽しみ。早朝にホーチミンを出発。3時間近くワゴン車に揺られた。するとだんだん道が険しくなってきて、ワゴン車は上下に飛び跳ねるジャンピングロード。今ベトナムは雨季。昨日雨が降った道はドロドロ。いつはまるかわからない。私は車の揺れ具合が楽しくてわくわくしていたが、運転手さんはひやひやしていただろう。
 しばらくそれが続いた。小さな橋をいくつか超えて、カフェに入って一休み。ベトナムに来て何回か飲んでるカフェ(コーヒー)・サ(ミルク)・ダ(氷)はほんとに甘くておいしい☆
 休憩しているとアオザイを着た学生が何人か自転車で通り過ぎて行く。ホーチミンの学生さんは真っ白のアオザイだが、こっちの学生さんは地面が泥ですぐ汚れるので下が黒なのだそうだ。
 橋の近くでは、なにやら川の船から砂を運んで道のトラックに移し変えている。道の補正でもするんだろうか。私たちがカフェでのんびりしていると、そのトラックがはまって、動けなくなっていた。何人かで協力してトラックを押す。押す。。動いた!無事運転再開!





出国までタイHCMCヴェトナム戦争日本語クラブ子どもたちゴミ山跡地メコンデルタ

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